6月11日〜17日
| 行事名 | 第10回 本場で学ぶタイ古式マッサージ基礎、上級コース海外研修 |
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| サブタイトル | 「城山のタイ古式マッサージ海外研修 珍道中の旅?」 |
| 会場 | タイ王国 ワット ポー チェンマイ校 |
| 参加者 | 6名 第1章 はじめに 第2章 感動のチェンマイ空港 第3章 チャーミングなガイドさん 第4章 チンタナ先生との再会 第5章 私の登校拒否で認定書もらえず 第6章 国を持てない、悲劇の民。山岳少数民族カレン族との出会い 第7章 誰が引いたか?国境線? 第8章 捨てられた小さな生命 第9章 旅の終わりに |
| 第1章 はじめに |
| 学院としての海外研修は今回で第10回目を迎える事になる。中国、上海中医薬大学5回。オーストラリア、リフレクソロジー協会1回。タイ王国、ワット.ポーでのタイ古式マッサージ研修2回。フィリピンは2回訪問している。オリバレス大学、アサンプション大学、New ERA大学での名誉学術称号授与式や代替補完医療の意見交換、整体の実技指導.マニラ新聞社訪問等である。私個人としては上海中医薬大学へは学院の皆さんより5回多く行っているので15回目である。毎回海外研修へ行く度に感動の連続なのだが、今回の海外研修ほど、私にハプニングと感動を与えてくれたものは無い。私のスクール不登校劇、山岳民族カレン族との出会い、孤児院施設訪問、などなど私の鈍い感性と私の貧弱な文章力で、「城山のタイ古式マッサージ海外研修珍道中」と題して書いてみた。お暇が沢山ある方は時間つぶしに読んで頂ければ幸いである。最後になるが、今回参加された方の名誉の為に申し添えておくが、スクールを登校拒否し認定書を拒否されたのは、皆の模範でなければいけない不届き者の理事長たる私、城山のみである。何とも情けない限りである。その他の先生方や学生さんは真面目にそして何より真剣に授業を受けられ無事上級コース、基礎コースと修了書を授与された事は言うまでもない。 |
| 第2章 感動のチェンマイ空港 |
| 今回の海外研修は意外と参加者が少なかった。前回04年度は20数名の参加者があったのにな〜? でもその分今回は充実した研修が出来るかも知れない?前回はバンコクのゴミゴミした所だっただけに気ぜわしく、あまり落ち着かなかったが? 日本の古都である京都に例えられるチェンマイはどんな所だろうか?と、色々な想いを巡らすうちに中部国際空港から6時間後には南国特有のムッとするバンコク空港に飛行機は無事着陸した。2時間の乗り換え時間を空港内でブラブラしながら1時間後には憧れのチェンマイ空港に着いた。 澄んだ空気がすごく美味しい、チョッと目を上げれば青い山々が見えて私の故郷(城山)九州佐賀県の背振山の麓で遊んだ事が脳裏をかすめて懐かしかった。 |
| 第3章 チャーミングなガイドさん |
| チェンマイ空港に出迎えてくれたガイドさんは、決して美人とは言い難いが(失礼)チャーミングで何より笑顔が可愛いらしかった。名前を聞くとオーラ.ワンさん(28歳)といい、遠い先祖は中国の戦争時代に雲南省あたりからチェンライとチェンマイの中間の片田舎に逃げ延びて来たのだという。そう言えばどことなく素朴なかんじを漂わせている。後日この愛くるしいガイドさんの一言で私はタイ古式マッサージの上級認定書を拒否されてしまう事になる。 |
| 第4章 チンタナ先生との再会 |
| 次の日12日は早速、基礎コース、上級コースと分かれて研修が始まった。私達上級コースの担当はチンタナ先生(女性42歳)前回バンコクのワット.ポーで基礎コースを教えて頂いた先生だった。私、岩瀬先生、山本先生、井上サリ先生達と再会を喜びあった。人の巡り会いの不思議さを実感した一瞬であった。 その日は9時間の研修が終わり、近くのレストランでスパイスと香辛料の効いたタイ料理を味わいながら、それぞれの思いを語り合い楽しい時間を過ごす事ができた。 前回のバンコクでの移動は人、バイク、車で混雑し、少しの移動でも30〜40分はかかるが、チェンマイ市内の移動は何処へ行くにも10分位だから楽である。 レストランでの夕食や、楽しい語らいを終え宿泊先のホテルへ向かう車内でガイドさんと、とりとめのない雑談をしている中、山岳少数民族カレン族の住む村が車で、2時間位で行けるという。 私は山岳少数民族の事が気になりその夜はあまり眠る事が出来なかった。チャーミングなガイドさんの一言が私の民族学探求の深層心理にメラメラと火を付けてしまったのである。次の日は迷う事無くスクール登校拒否の英断?をさせてしまったのである。 |
| 第5章 私がスクールを休んだ理由 |
| 前述した通り、私の故郷は九州佐賀県、背振山の麓で山、野原、川、田畑に囲まれて、14歳まで過ごした。私が3〜4歳までは今は亡き父親が商売をしていたため裕福だったらしいが私は裕福とやらの恩恵は知らない。世間の全ての男がそうだとは言わないが父に限っては母親以外に好きな女性ができその女性とどんな事情があったかは知らないが、ともかく商売がうまくいかなくなり母親は大変な苦労をしていたのを思い出す。しかし私自身の思い出は人間以下の生活の中で、小さな村に時折り来る紙芝居のおじさんや、籠、竹ほうきを売りにくる人達とのふれあいや、村人達との小さな触れ合いを通じて心温まる交流が出来た事が今では懐かしく思い出される。そんな環境で育ったせいなのか? 以来ず〜っと、私の頭の中にあるのは、裕福な人と貧乏人、エリートとアウトサイダー、知識階級と学問の無い人、綺麗な仕事をする人と汚い仕事をする人、白人と有色人種、欧米人とアジア人、幸せと不幸、 等々。私自身の人生は明らかに後者の方である。そんな訳で25歳位から民族学、人類学、先史時代の事に興味をもち、私なりに素人研究を重ねて30年になるので整体の仕事より10年も長くなる。 私事をいろいろ書いてしまったが、私がタイ古式マッサージの研修を放棄してまでカレン族の生活ぶりをこの目で見てみたいという言い訳をくどくどと書いたに過ぎない。朝一番、スクールに着いて岩瀬学院長に私が研修を休む理由を説明し、その足でチンタラじゃなくチンタナ先生に今日はチェンマイ大学に用事があるのでとウソをつき(本当はチェンマイ大学は後日訪問)研修を休ませて頂いた。チンタナ先生は快く頷き、今度チェンマイに来る時に残りの時間数を履修して実技試験をすれば良いので気をつけて行ってらっしゃいと笑顔で言ってくださった。ウソを言った私は、優しい先生に心の中で感謝しながらガイドさん、運転手さんと一路、山岳民族の住むカレン族の村へと急いだ。 |
| 第6章 国を持てない、悲劇の民。山岳少数民族カレン族との出会い |
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チェンマイ市内→田舎町→田園風景→山道→を車で走ること約2時間。やっとの事で山の頂に着いた。見渡す限り山、山、山。山を登る途中で小さな花が畑に咲いていた。ガイドさんの話によると少し前までこの畑はアヘンの元であるけしの花が咲いていたそうである。そう言えばこの部落から車で約6時間北へ行くとタイ最北端の町メーサイがある。その隣町チェンセーンはタイ、ミャンマー(旧ビルマ)、ラオス、の3ケ国が国境を接するゴールデン.トライアングルがある。かつては世界の麻薬の7割が栽培されていた場所で有名だ。 このアヘンを吸って世界中の人々がどの位苦しみ、どの位死んでいったのだろうか?しかし山岳民族の人達が悪い訳ではない。山岳民族の人達は綺麗なけしの花がそこに咲いていてもけしの花をアヘンに精錬する方法も販売ルートも知らないのだから。大量の精錬方法と世界的な販売網を持つ一部の西欧人がアヘンを世界中にばらまき莫大な資産を築いた。その後民衆から非難の声が沸きあがるとアヘンで莫大な資産を築いた一部の資産家達は、アヘンは体に悪いのだ。と、大声でわめきながら一斉にアヘン撲滅キャンペーンを繰り広げた。しかし頭の良い一部の資産家達は、今度は末期癌の人達にとって痛みを軽減するアヘンの使用理由(消費)を思いついた。医師の処方があればアヘンを薬局で購入出来る法律を作ろうとしている。莫大な資産が築けるアヘンの生産をやめるわけにはいかないのだ。 後日訪問することになる孤児院の施設では山岳民族の親がアヘンの為に刑務所に入ったので子供が孤児として施設に入っているという説明を受け、私はやるせない気持ちで一杯だった。そんな事を考えながらユックリ山の坂道を登ると山岳民族カレン族の部落が見えた。山の頂きに20軒程の家とは言えない家?があり、おのおのの家?の前には自身で作った机の上に綺麗な刺繍の織物が並べてあった。この織物もカレン族の伝統工芸だという。以前中国へ出かけた時に出会ったチベットの人が持っていた刺繍に似ていた。年老いたお婆さん(70歳位)を見つけガイドの通訳を通して話を伺うことにした。 |
| 第7章 誰が引いたか?国境線? |
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年老いたお婆さんの話によると「昔は国境がなかったので今のミャンマー(旧ビルマ)の山岳地帯で平和に住んでいたが国の体制が変わり徐々に追われタイの国境の山岳に移り住んでいる」との事。したがって山岳民族の人達は国を持てないでいる。手元にある本によるとミャンマーの国境近くにはカレン族が300万人以上、タイ側の国境チェンマイ県、メーホーソン県、ターク県合わせて35万人のカレン族が居るという。そして、ミャンマー側では誇り高き少数民族の人達が今でも民族独立闘争を続け紛争が絶えないでいる。人類の移動史は多枝にわたり複雑極まりない。文献によっても年代表記が違うから実にややこしい。日本実業出版社の「地図と地名で読む世界史」を参考にして人類の略史を簡単に述べてみる。それによると人骨の発掘により最古の人類の祖先が姿を現したのは約500万年前にエチオピア、タンザニア辺りである、約180万年前には東アフリカに出現、約170万年前には西アジアのグルジア地方に出現、インドネシアジャワ島には約100万年前、中国北京には約50万年前、ドイツ方面へは約20万年前に、オーストラリアは約5万年前、日本へは約3万年前、と一応書いてある。そして、人類の文明が花開く最古の文明発祥地1メソポタミア文明。次に2エジプト文明、3インダス文明、4黄河文明である、それぞれ約7千年〜約3千500年の歴史がある。 以上のように大きく分類すると、民族の移動には500万年前に人類が誕生して各ルートを経た先史時代の民族と、4大文明以降に興亡を繰り返し各ルートをたどった民族。そしてこの様な時代には集落はあっても明確な国境というものはなかったと考えられる。この様な時代には人々は自由に大陸を、そして自由に大航海をした事だろう? タイにはモン族という山岳民族が居るがモンとはモン語で「自由」を意味するという。 19世紀末までには西欧人はアジアのほとんどを植民地化しながら国境を作っていった。そして20世紀に入っても欧米諸国は飽き足らず民族紛争は政治体制が悪いから民主化が必要だと屁理屈を並べては政治介入して国境を変えていった。最近ではイスラムのテロリストは悪魔だ、テロリストが潜伏しているから危険だと、良く確かめもしないで、わめきちらしながら平気で他国を空爆し子供や、一般市民を巻き込み死に追いやる様は一種の精神分裂症に近いものがある。 イスラムの人達の味方をする気はさらさらないが、イスラムの人達が理由もなくテロをやったとは思えない。 悲劇はユダヤ人が一方的に独立を宣言する1948年5月14日に始まる。国名はイスラエル国。国名の由来はyisra(戦う),el(神)と言う。以下、一部の欧米人である神様?がこれまでに行った立派な行状を書き記してみる。今のイスラエル国は、古くはカナンと呼ばれ約4000年前ユダヤ人が定住し長くユダ王国が栄えたがローマ人に追われ約2000年前にユダヤ人は世界各地に離散、ユダヤ人は流浪の民となる。それから約2000年後の今日アラブ人達が平和に住むこの地に2000年前は俺たちが住んでいた土地だと一方的に独立を宣言し世界のユダヤ人達は大挙して入植を始めた。アラブ人達は自分たちの土地を奪われ、圧倒的な武器力を備えたイスラエル人により多数の死者や多くの難民が作り上げられていった。以後4度の中東戦争を繰り広げるが一部の欧米人による様々な援助が功をそうして、いずれもイスラエルの大勝利に終わっている。その度に神様の住む?土地は大きくなっていく。パレスチナの人々にすればイスラエルも憎いが様々な援助をした欧米人も憎い事だろう。そして頼みもしないのに、神様?はまた国境線を勝手に変えていく。4年に一度スポーツの祭典であるオリンピックが開催される。各種の世界大会も行なわれる欧米人が負けるとルールが平等ではないとまるで子供のガキ大将の様にルールを変更していく様に似てはいないか。それぞれの民族はアフリカに共通の祖先を持つ人類でありながら何故差別や醜い殺し合いを繰り返すのであろうか?その度に弱い民族は僻地へ追いやられ国境を持たない難民として人間以下の生活を虐げられてきた。 以上の理由は、広瀬 隆著 集英社文庫「赤い楯」、「地球のゆくえ」に詳しい。関心のある方は読んで頂きたい。 折りしも、このレポートを書いている6月23日の中日新聞国際版に「イスラエルがガザ空爆強化」「止まらぬ市民巻き添え」「国境画定への批判封じ」の見出しがあり、21日の誤爆で妊娠7ケ月の母親(36歳)と胎児が死亡。イスラエルがガザ地区へ5000発以上を打ち込み今月だけで52人が死亡。この様な一般市民殺害の度に「遺憾」と話すペレツ国防相とは一体何者であろうか?私にはとうてい理解出来ない言葉である。 そろそろなごり惜しい時間が迫ってきた。ガイドさんを通して色々な話を聞かせて頂いたカレン族のお婆さんが最後に言った「カレン族の子供達に学校を作り教育を受けさせてあげたい」との言葉が私の胸を強烈に痛めた。帰りの車中ガイドさんによると「私の6年のガイド歴でこの村へ案内したのはあなたと雑誌の取材で来た2人だけ」との事だった。 人間以下の生活に耐えながらも「優しいこころを持つ」少数民族や難民と呼ばれる人達とナマの生活に一瞬でも触れてみたい。私の感性と私の目を通して少数民族の悲劇を知っておきたい。私が大事な研修を放棄してまで、この村にどうしても来たかった理由がここにある。前回中国、フィリピン、パラオに出かけた時も貧困と戦いながらも、決して微笑みを忘れない人々に出会う機会を得た。 私達と同じ人間でありながら・・・? |
| 第8章 捨てられた小さな生命 |
| いよいよ、旅も最終日を迎えた。日本にいる時、井上サリ先生が私にこんな提案をしてくれた。「新聞で読んだ事があるのだけれど、チェンマイにはエイズの子供達を収容した施設があり、是非訪問して子供達に何かしてあげたい。しかし住所や場所は記憶にない?」と真剣な眼差しであった。早速学院の渡辺女史に事情を説明しインターネットで調べてもらう事にした。該当するものが2件出てきた。1件は外国の企業が運営するエイズの施設、もう1件は日本の民間団体?が会員を募り運営する施設であった。早速日本の民間団体の方に丁重に事情を説明しメールを送った。返事であるが、「この施設は○○さんがエイズの子供達の為に設立した、今は日本人のスタッフは日本に居て来てもらっても対応が出来ない事その理由はエイズの子供や現地のスタッフの自主性を育てるため。会員でないと?訪問は何の目的か?急に言われても?」と、すこぶるいい加減な返事だった。こんな訳でエイズの施設訪問のスケジュールは残念ながら宙に浮き日本を旅立ったのである。タイに到着した当日、再び井上サリ先生から「ひょっとしたらエイズの子供達の施設をガイドさんだったら知っているかも知れないから聞いて下さい。もし知っているなら最終日のスケジュールに是非入れて欲しい」と強い要望。あくまでも優しい人である。そう言えば本人は決して語る事はないが、フィリピンの大学を訪問した時にも、貧しくて大学に行けない子供達の為にと大学の教育基金へ。日本語を習得したいが僅かな学費が払えない人達の為に日本語学校へもと、いくらかの寄付をした事を私は知っている。こうした優しいこころを持った「学院の先生方が私は大好き」である。そして、この様な優しい先生方の心が整体の教育に反映していると思うからである。私はチェンマイに着いたその日にガイドさんに事情を説明したら、「エイズの施設は遠いので時間の関係で行くことは出来ないが何らかの事情で両親の居ない孤児の施設だったら案内できる」との事。早速その旨を皆さんに説明すると皆同意してくれた。エレファント.キャンプを見学してその足で孤児院の訪問をした。勿論、訪問する前に皆でお金を出し合って子供達が喜びそうな菓子を近くのスーパーでしこたま買い込んだ事は言うまでもない。この様な事で孤児の根本的な解決にはならないのであるが、ともかく嬉しそうな孤児の顔を思い浮かべながら両親の居ない施設へ向かった。孤児の施設を案内してくれた若い女性の説明では、この施設の創立は40年前に子供の居ないタイ人のキン.キャウと言う一人のお婆さんが作ったとの事。決して裕福ではなかったお婆さんが親の居ない子供達の為に自分の家を提供し面倒をみたのが始まりとの事。15年前に火災にあって難はあったものの、今では世界中のこころある人々からの寄付で運営され現在1ケ月半から6歳までの孤児50人が収容されている事。現在16人のスタッフが24時間体制で子供達の面倒を見ているとの事。まだまだ充分な運営費とは言えないとの事等々。私が特に必要な物は何かと聞くと、「子供達のミルクがまだまだ足りない」との事だった。つかの間の時間を子供達と楽しく過ごす事が出来た。施設に行く前にお菓子を買った際のおつりを募金箱に入れたがそのお金が子供達のミルク代になればと思いながら案内の人に別れをつげた。帰りの車の中で日本のエイズの施設の事をガイドさんに話したらその施設の持ち主はチェンマイではすこぶる評判が悪いと言う。理由を聞くと、ガイドさんも日本人をその施設を案内したが、まずアポイントを取らなくてはいけないし、訪問客を連れていくと2千円くれるのだという。訪問する人達が来るまでにエイズの子供達の服を着替えさせ綺麗にし、訪問客が帰ったら元の服にするのだという。この施設の持ち主はチェンマイに誰もが羨むプール付の豪華な邸宅に住んでいるとの事。学院の渡辺女史がメールしてくれた施設とは違うとは思うが?返信のメールには神戸市の住所が記入してあった。私達はガイドさんの話を聞いてやるせない気持ちで一杯だった。 そして夜のチェンマイ空港をバンコク行きの飛行機が静かに飛び立ち、私たちの旅は終わりを告げた。 それぞれの想いを抱きながら? |
| 第9章 旅の終わりに |
| 私の海外旅行は今回で17回目である。そのほとんどが伝統医学の研修である。家族旅行で行ったサイパン1回と学院の先生方と親睦旅行で行ったパラオ1回を除いては。そしてそのほとんどがアジアでの研修だ。リフレクソロジーの研修はオーストラリアだったが。 いつも思う事だがアジアの国々には東洋医学で言う陰陽の世界が繰り広げられている。貧困と裕福層。高層ビルとわら吹きの家、私にはこの混沌とした世界がたまらなく魅力的である。そして、アジアの中でも特に東南アジアに魅力を感じるのである。理由は?と聞かれると、貧困と戦いながらも未来に向かって力強く生きようとする姿勢を感じるからである。冒頭で書いた私の生い立ちに似ていて、私のこころに共感を呼ぶのかも知れない。ともあれ東南アジアの人達と接している時、素朴な人間らしさを感じる。こんな人達を見ていると思わず「私も頑張るから、貴方達もがんばってやー」と思わず声をかけたくなる。タイにはカレン族、モン族、パドゥン族、ラフ族、アカ族、ヤオ族、リス族、ティン族、の少数民族が居る。フィリピンにはスールー海がある。パラワン島、パナイ島、ネグロス島、ミンダナオ島、ホロ島、タゥイタゥイ島、そしてインドネシア、ブルネイ、マレーシアの三ケ国が共有するカリマンタン島(ボルネオ島)に囲まれた静かな海である。この静かな海にほんの46年前までサマ人といわれる、陸地に家屋を一切持たず船上で生活を営む人達がいた。サマ人達はフィリピン南部のスールー諸島、マレーシアのサバ州、インドネシア東部のスラゥエシ島などの沿岸近くの海で漁業をしながら家族主義を貫き、お互い輪を大切にし、助け合いながら生活をしていた。サマ人達は別称パジャウとして知られている。しかし、海の境界線が引かれてからは他国の海へ漁業に行くことも叶わず、今ではパジャウを見ることは出来ないのである。このようにフィリピンでも誰が海の境界線を引いたのか?である。私がインドネシア語とフィリピンのタガログ語を調べただけでも共通する言語がある。例えば私を表す言葉はインドネシア語ではアクやアコといいタガログ語ではアコと云う。顔を言い表す言葉でインドネシア語では、ムカ、タガログ語でもムカ。鼻はインドネシア語ではイル、タガログ語ではイロン。目はインドネシア語ではマタ、タガログ語でもマタ。口はインドネシア語ではビビィール、タガログ語ではビィビィグ。冗談はインドネシア語ではベルタンダー、タガログ語ではビルラン、と良く似ているではないか。中国語では、〜でしょうがティパーというのだそうだ、タガログ語ではディバー 。フィリピンのパナイ島アクラン州カリボで毎年熱狂的に行われるアティア.ティハン祭りがある。この祭りの由来は13世紀始めこの地にボルネオ島からやって来たダトゥ族とアクランの先住民との間に友好関係が生まれ、その喜びを表すために始まったのだという。この様に、世界の人々には人類学、民俗学、言語学、先史学的に見ていくつもの共通性がある。冒頭に記した様に人類はアフリカに共通の祖先をもつ。今回のタイでの旅でも感じた事だが、人間はあくまでも平等なのである。一部の権力者、エリート、裕福層のワガママの為に弱い立場の人間が決して虐げられた人生を送ってはならないのである。 今回の旅も私達に人間の優しさと厳しさを教えてくれるものであった。私が学院の教育の一環として海外研修にも力を入れるのは、それぞれの国で育まれた伝統医学を学ぶ事も一つの大切な要件であるが、参加された各人が各々の鋭い感性と確かな目で人間が延々と作り上げてきた異文化や人間の優しさ、人間の厳しさ、人間の逞しさを、自分の感性で捉える事にある。やがて学院を卒業したのち、海外研修での実体験が深層心理に刻み込まれクライアントに対しては誰よりも優しく、自分自身に対しては人生を力強く生き抜く為の羅針盤になればと心から期待するからである。感じ方はそれぞれの持つ感性で違いはあるのだろうが海外研修を通して参加された皆さんが何かを感じ取って頂ければ私の主な目的は達せられた事になり嬉しい。そして今回参加された学院の先生方や生徒さん達とタイという異国の地で同じ感動を共有出来た事に感謝し、私達の海外研修中、学院で留守を預かり業務をこなして頂いた学院のスタッフ中山女史、渡辺女史。半年前から私と一緒に計画を練り私の身勝手な言い分を快く聞いて頂いた日本側の旅行会社、名鉄観光の若松さん。現地での手配をしていただいたタイ側の旅行会社の人々、現地での案内役ガイドさん、運転手さん、私たちの研修中事務を遂行しながらも休憩時間になると何気なく気を使って頂いたワット.ポー.チェンマイ校の女性スタッフの皆さん、タイ古式マッサージを指導して頂いた講師の先生方、と、今回の海外研修も実に多くの人々の協力と手助けを頂いた事に心より感謝するものである。 |
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