在校生・卒業生の声(2)
2002.1.15
Shion
ここでは、この学院と自分の経験を通して学んだことをお話したいと思います。
私はこの学院に通い始めてかれこれ半年になります。
私自身、酷い腰痛で5年程前に整体院に通っていたことがありますが、当初はさほど術者、つまりやる側には興味がありませんでした。
学院のHPでウェルネスリーダーという資格があることを知り、それを受けたくて、じゃついでに整体も習おうかといった程度にしか考えていませんでした。
ウェルネスを受けられる学校はもっと近くにもあったのですが、この学院を選んだ理由は後ほど説明します。という事で、じゃついでにと思っていた整体を習い始めたのですが、最初の数回ははっきり言ってあまり楽しいと感じませんでした。最初に送られてきた教本を見た時でさえ、40項目もあって難しそうだけど会社のパソコンに比べたら覚えることは少なそうだし…程度にしか感じていませんでした。
今から考えると、千差万別の人の身体と、だれがどう触ろうが同じ様に応えてくれるパソコンとを一緒にしていたその頃の私は、今皆さんがお思いのようにおばかさんそのものでした。
ある日、学院のHPでTAT理論を目にしたときです。私が求めていたものがそこにあり感動で一杯になりました。内容そのものは勿論ですが、それは私にとって、やっと整体を勉強する意味を見出した瞬間でした。
おおげさな感動だと思われるかもしれませんが、私が以前通っていた整体医院では、勿論私はお金を払うお客さんで、治して貰うのが当たり前、行けば治すのは先生。位の考えしかなく、自ら治ろうという気持ちや気付きが感じられなかった、もしくは与えられませんでした。
TAT理論には“気付き”というとても意味深く、説明しにくい事が整体を通じてわかり易く書かれています。3週間ほど前に先生が言われたように、このTAT理論に書かれてある“間合い”であるとか“型と対応”などは何も整体だけに用いるものではなく、人前で話すこともそうであるように、全てに通じること、つまり人と人が出会いコミュニケーションをとり何かを感じあう為のものであるかも知れません。
それをTAT理論を用いる整体では、身体と身体のコミュニケーションではなく、心と心のコミュニケーション、つまり非言語で相手に気付きをもたらすのが目的になるのですが、ではこの“気付き”とは何でしょうか?
私は本を読むことが好きで、ここ10年位は精神世界、簡単にいうと“心に関する本”を読んでいます。その中にいつも“気付き”という言葉が出てくるのですが、なんとなくは文章の流れで理解できるものの、最初は何のことかちんぷんかんぷんでした。
中には凄く難しい内容の本もありましたが、それでも読むことをやめようとは思いませんでした。
と言うのも読んでいくうちに心の中にある重いものが、だんだんと軽くなってゆくような感覚をその度に感じたからです。
この心の中にある重いものは私の場合、幼少時の家庭環境からつくられたものです。昔に比べて最近では“生命の尊重”とよく言われるようになりました。
これは子供への虐待であるとか、大した動機の無い殺人などが、毎日のようにニュースを通して伝えられているからです。でもこういった事件は、最近になって増えてきた訳ではないように思われます。
これら事件の犯人と言われる人たちの家庭環境は、裕福であるか否かは別として、必ず抑圧され続けたものがあるように思われます。またその両親をみてみると、また同じ様に言えるかもしれません。
ですから、最近になってこのような事件が増えてきたのではなく、明るみになってきただけです。
私も、そのような家庭環境に育った一人で、10才の頃に初めて命のあり方や、生きていく意味を考えました。
精神的ショックや人間不信から、それ以前の記憶もなくなり人と話すことも出来なくなったのですが、それでも生きていたかった私は、自分の存在を感じるために、どんな悪いことをしても自分を主張してきたように思います。
そうすることでしか自分が生きていることを感じられなかったのです。その頃はよく病気をしました。
中学生の時には、両足が急に動かなくなり歩くことさえ出来なくなりました。
色々な病院に行ってみたのですが、病名は分からず仕舞で、筋肉に骨の発達がついていってないとか、成長期にはよくあることだとか、それらしい事を言われたものの、身体の仕組みが理解できない私には納得できませんでした。
今から考えると、その頃の私には、もう先をみて歩く力がなかったのだと思います。
急に喘息になったこともあり病院にも行ったのですが、風邪をひいていたので、風邪薬と何か分からない薬を一緒に貰った覚えがあります。何年かたったある時、突然この喘息は治っていました。
ちょうど、生きていくのが楽しくなった頃です。
その頃から病気は自分でつくっているものかも知れないと感じるようになりました。
そう言った経験から、色々なセミナーに参加したり本を読むようになったのですが、何を求めていたのかはこの“気付き”に他ならないと今では感じています。
私なりの捉え方でこの“気付き”は心の成長、つまり自分の存在を認識してゆく鍵です。
この“気付き”の段階は人によって違ってくるのですが、いい悪いで判断できるものではありません。
例えば、咲き誇っている花を見て、美しいと感じるのは皆同じだと思います。それでは咲き誇る前に枯れそうでそれでも咲こうとしている花や、枯れてしまった花ではどうでしょうか?
ある人は可愛そうに思うかもしれませんし、またある人は命の短さや、美しい時は長く続かないと感じるかも知れません。
医療関係の職に就かれている方、身内の死に立ち会われた方などは、それでもまだそこにある・あった美しい生命の尊さを思い出されるかも知れません。1つの物を見ての感じ方は人それぞれの経験からくるもので、これが“気付き”の段階です。いい悪いではなく心のあり方です。
そしてこの“気付き”が多い程、物事を注意深く、色々な角度から受け止められるようになります。
その洞察力は知恵となり、得た物はあらゆる生命への共感として蓄えられます。
先ほど、気付きには段階があると言いましたが、私の経験でお話します。
それはまるである本で読んだ、死を宣告された重病人のようでした。
先ず最初に怒りと悲観がありました。なぜ私だけこんな目に遭うのか、自分は何て運がわるいんだろう。
次に抵抗があります。絶対に負けない・必ず見返してやる。それでも状況が良くならず何度か、怒り・悲観・抵抗を続けているうちに、全く状況は変わらない事に気付き、弱い自分をそのまま受け入れてみました。
受け入れてみたというより、それ以外に方法がなかったと言ったほうがいいかもしれません。
その時に初めて“許し”を知りました。自分への“許し”です。
重病患者が苦しみながら、死の前に探し求めているのはこの“自分への許し”ではないでしょうか。
病気を通して、自分をあるがままに受け入れ“許し”を知ることで、やっと自分の存在があったことを知ると言われています。病気、つまり病むとは身体と心が切り離された状態で、身体が痛みと言う不快さを通して心に訴えているにも関わらず、闘いを止めない状態なのです。つまり自分を許さ(愛さ)ないことです。
ご存知のように、病気は英語で“Disease”“Disは(除く・奪う) easeは(寛ぎ・平穏)”と言います。読んでそのまま平穏を奪うという意味です。
許しは“Forgive”と書きますが“For(〜のため)” “Give(与える)”とあるように(人)に与える為に(自分)を許す・愛すのではないかと思います。
私も最終的には自分を許して心の平穏に気付きました。そして心に傷をつくったであろう両親をも許せました。
父はちょうど3年前、20年の入院後に病院で亡くなりました。
最期まで会うことはなかったのですが、孤独に死んでいった同情心から許せた訳ではありません。
何も、“時が経って大目に見てあげた”という気持ちからではなく、許せない行為そのものを使って、傷つけてきた私自身を許せたからです。
そしていつくしみと優しさをもってその行為者を認めた結果に他なりません。
不思議なことに、自分を許せるとその相手も許せるのです。
その原因や行為そのものは問題ではないと気付きました。
そして、このいつくしみや優しさは共感として今でも心に残っています。
多くの人がこの事に気付けば、今他国で起こっているような原因を突き止める争いや、毎日起こっている悲惨な事件はなくなるのではないかと思います。
これは国家レベルの大きな争いだけに言えることではなく、個人にもあてはまることです。
最近は日本でも、心療内科をよく目にするようになりました。
20代・30代にも自律神経失調症、軽度のうつ病が今、増えているそうです。
何もかも順序だてて規則どおりに責任をもってやらないと気がすまない、真面目な人に多いようです。
たとえ周りの人がそれほど期待していないとしても、真面目な人はいつも自分に規則を作り、それと闘っています。人生は闘うことだと思っています。
以前の私も、見えない何かといつも闘っていました。Onlyone(オンリーワン)ではなくNoone(ナンバーワン)が大好きで職場では全て自分がやる勢いで、人には任せようとしませんでした。
周りからは仕事ができる人と評価され、上司に頼られ自己満足な日々でした。
ある時、酷い風邪をひいて2、3日仕事を休み、出社した次の日“いや〜、居なくて困ったよ”と心配そうに言われたものの、目にしたのは仕事の山でした。
その時気付いたのは好きでもない仕事へのストレスと、他の人を頼らず、結果として他人でも出来るであろう仕事を横取りしていたことです。
仕事の出来る女性をよく、“自立した女性”と、特に女性に対して自立という言葉が使われます。
私もよくそのように言われましたが、勿論これは本当の自立ではありません。
仕事が出来たり、自分に厳しいことが自立ではないのです。
TAT理論の中でも、この“自立”について書かれてあります。
“自分一人で何もかも背負ってきた感覚が減少し、他者と共に生きている、互いに依存しているという感覚が出てきて、そういった孤立感から開放される”とあります。
私もNo oneを止め、Only oneであればいいと思うようになってから、人を信頼し頼れるようになりました。そしてこのOnly one(つまり自分のオリジナリティー)を認めてこそ自立していると言えます。
昔はよく“家庭を持って早く自立しろ”という言場を耳にしましたが、何も結婚することで家族の生活を支えることが自立ではありません。独身の私が結婚についてあれこれと言えませんが、恋人同士の関係と考えても同じです。
何か足りないものを埋める関係であったり、同じ足りないものを慰めあってるだけでは長続きする筈はなく、反対に自立した人同士では、素晴らしい関係が築かれるのは言うまでもありません。
互いに手を引き合って生きるか、足を引っ張り合って生きるかの違いです。
理論の中には「TAT法を行使した人、受けた人の“何か”を変えて行いき、それが特に人間関係に反映されています。」とあります。
気付く度に、これまでと同じ様に保てない人間関係や価値観が出てくるのですが、人は先の見えない、保証されない将来に向けては、アンバランスな関係を安心と思い込んでしまいがちです。
サイズの合わなくなった服をいつまでも脱ぎ捨てることができないようなものです。
世の中は絶えず変化していて、変わらないものはそう多くありません。
川の流れはいつも同じ様に見えて、そこに流れる水はいつも同じではないのです。
一度、執着心や不安を手放してみると、思ってもいなかった大きなものを手にしたと、その時初めて気付くのかもしれません。
変化を恐れるどころか、新しい物に常に目を輝かせる子供のようでありたいものです。
また、私の素晴らしい体験もこのように書かれてあります。“存在する生命の実感・宇宙と共にある生命を感じる”ことです。経験された方もいらっしゃると思います。
それは本当に言葉で説明するのは難しく、敢えて言えば、“二次元的な肉体としての存在ではなく、隠し事や、生も死もない意識を持った光の存在”になった感じです。
この光とか後光はよく宗教で使われていますが、私は神や仏を崇めている訳ではありません。
もし、神が存在するのであれば、神が創造した全ての生命は神の分身で、一人一人が神様である筈です。
神はどこかは分からないけれども、遠くに居て崇めるものでもなければ、苦しい時だけに頼る存在ではないのです。私の考えでは、神様は隣にも居て、向かいにも居る存在です。
神頼みをして失敗し、あ〜やっぱりなと思ったり、神なんて居ないと自暴自棄になった経験はないですか?
願望や現実は、小さな神ならぬ自分自身が創造できるものなのです。
天に向かって願うより、自分を信じることが大切だと言えます。
以前読んだ願望を実現させるというイメージトレーニングの本で、印象に残っている男性の話をしたいと思います。
その男性は強い願いが実現するのなら、“大金持ちになりたい”と思い、来る日もゝ“大金持ちになりたい”と願い続けました。がいつまで経っても、大金持ちになれません。
その男性は、強く願った後には、執着心を捨てる事も必要だと悟り、いったん“大金持ちになりたい”は忘れることにしました。それでも願いは叶わず、また“大金持ちになりたい”とその姿を想像しながら願ったのですが、結局は大金持ちになれませんでした。
これは失敗のように思われますが、実は成功です。“大金持ちである”ではなくて、 “大金持ちになりたい”という願望・その思いを持ちつづけることは叶えられているからです。
これは目的も無ければ本人の努力も無い、極端な例ですが、先生がよく言われる“プロのつもりでやれ”と言われるのは、この点ではないかと思います。
思いが現実を創るということです。
そして、もう一つ大切なのは2度とないこの瞬間を大切に生きるということです。
この瞬間は呼吸の、吸う息と吐く息の間のようなもので、意識するのは難しいのですが、 未来を吸い込んで、過去を吐くと考えると、絶えず一瞬一瞬に未来が現在になり、過去になってゆきます。大切なのは今呼吸をして生きている自分を感じることで、1秒前・1日前に過ぎ去った過去に捕らわれないことです。また、将来必ずいいことがあるなどど漠然と夢みていても、今呼吸している自分を感じられなければ、未来には呼吸している自分はありません。
そして、この一瞬を共有できる仲間に何をもたらすことが出来るのか?が3週間前に先生がいわれた“感動”です。
整体も含め、人が何らかの行動で与えられる最高の物は“感動”だと言われた言葉が印象的でした。
一人一人の神様に何らかの感動を与え、受け取りたいものです。
これまでTAT理論のA(アウェアネス)気付きについて、病気や抵抗、受け入れること、許す事・自立を交えて、私なりの経験で話してきました。
私が理論の中で一番印象深いと感じたのは“これから触れようとする相手は、少なくとも、あなたに触れられることを許した人です”というところです。心からくる痛みに触れるのならその人の“人生”に触れることを許されたと考えていいのかも知れません。そこから何らか生まれる感情があるとすれば、それは大目に見て年月と共に忘れたと思われる出来事かもしれないし、術者の優しさかもしれません。
そして、この理論はこの学院の整体の基礎であって、技術そのものではないとテキストの最初にも書かれてありますが“目的と手段を混同しない”ことです。
整体を受けた相手によっては、ただ疲れが取れてすっきりしたと感じるだけかも知れません。
目的は相手のNeedsを満たす手伝いをすることであって、相手から何かを引き出したり、感じようとすることではないと思います。
さて、冒頭でこの学院を選んだ理由を後ほどお話させて頂くと言いました。
学院のHPの質問コーナーで、当初メールで先生に色々と質問したのですが、数日後にとても丁寧なお返事を頂きました。学校を探していた私は他の学校にも問い合わせをしていて、どの学校もさほど変わりはなく丁寧で親切でした。
ただ、城山先生の返事には心に響くものがありました。
丁寧な回答の後に、こう書かれてありました。
あなたには次の言葉を送ります。
●出来ない理由を一つ考えると出来る自分が三つすり減っていく。
●人生は、貴方の思う通りに実現する。
あれも出来るこれも出来ると説明してくれる学校は多かったのですが、心に響くものがありませんでした。
また、ずっと以前の私なら「すり減るなら、すり減って結構!」と他の学校に行ったかもしれません。実際、たった2行の言葉で、他の学校のことは忘れていました。
これも一つの感動・心を動かされた瞬間でした。
その頃の私には、この言葉に反感を持たず、受け取れる準備が出来ていた訳ですが、会ったことも無い相手に一番どういう言葉が相応しいのかを見抜くのは、只者ではない!と思いました。
というのも、他の方の問合わせには、そのような言葉はみつからなかったからです。
これが、個々のNeedsに応えるということかもしれないな…と感じました。
それともう一つ、人間性を感じたのは、このTAT理論を読んだ時です。
これだけの事を書くのにどれだけの経験が必要か…は計り知れないものがあります。
時々、この人の強さと優しさとユーモアはどこからくるのか?と感じさせられる魅力的な人がいます。
自分の経験を多くは語らなくても、その人の言動から、その人の“人となり”が感じとれます。
最近は癒し業界や、キャッチフレーズの見出しに“誠意や、愛さえあれば”とよく目にします。が、それは努力しない人の言い訳でしかありません。
見えない努力あっての誠意であり、愛です。
整体師には“技術”+ この“人となり”が大切ではないかと思います。
という事で、自分の経験を通した気付きをお話させて頂きました。
これは、私自身の考えであって、理解して貰おうというものではありません。
そして一人一人がオリジナルであるように、心に映るものは決して同じではありません。
遠くからいらっしゃっている方も私と同じ様に、何かに心動かされてこの学院に入学されたことと思います。
これを機に、何かを感じて頂ければ幸いです。
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